Mamusan COFFEE

コーヒーを売らないコーヒー屋。マムさんコーヒー。

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接近

「鍵をかけとけばよかった」男が玄関から部屋に侵入してきたとき、真っ先に考えたのがこのくだらない後悔だったくらい、あつ子は恐怖によって混乱していた。誰なの?なんで?身を守るものはあるかしら?フライパンはどう?でも下手に相手を刺激したらどうしよう?結局、フライパンを持とうか持つまいか決め兼ねたままいちおう持っとこうかなくらいのつもりで伸ばした手が空を切った。フライパンは台所に置いてあるので、あつ子のいるこの場所は台所からは少し遠い。そうこうしている間にも男はゆっくりとあつ子に近づいてきた。混乱と恐怖は増すばかりで、あつ子は大声を上げることさえ出来ず身構えた。

そのころ、倫太郎は旧友と対峙していた。バーや居酒屋が立ち並ぶ市内唯一の歓楽街。その表通りから一本路地裏に入った薄暗い裏通り。明るさや騒々しさが微塵も感じられない、暗く湿った古い雑居ビルに囲まれた通路で、この恐ろしい友と相対せねばならなかった。
「久しぶりだね。袴田くん」
目の前の男は、かつて中学生時代に倫太郎とともにファイトクラブを立ち上げた旧友だった。数ヶ月ほどたって倫太郎が急に怖くなり、足が遠のいていたときに参加者の1人が死んでしまう事故が起きて、それっきりになっていた仲だった。その、参加者を死なせた張本人が、眼の前にいる袴田という男だ。袴田は、四角いふちなしメガネの奥から爬虫類のような目をぎょろりと覗かせると、倫太郎に対して敵意を剥き出しにして睨みつけてきた。あのとき、あのあと、袴田がどうなったのか結局覚えていない。事故として済まされたのか、事件として扱われたのか。袴田に関わるのが怖くて避けていた。ただ、風のうわさでその後袴田はあまりよくない人生を歩んでいることはなんとなく聞いていた。刑務所にしばらく入っていたとか、暴力団に入ったとか、そういった類の噂をよく耳にした。中学生時代の、ほんの一瞬のできごとを、倫太郎はずっと引きずるのが怖かった。だから今まで袴田のことを考えるのを先延ばしにしてきた。その不義理のツケが今襲いかかっているのだ。幾往復かの口論の末、袴田は「またお前に会いに行く」という言葉を残して去っていった。それは宣戦布告に近かった。
「倫太郎さーん!」
突然、後ろからあつ子の声がした。まさか?なぜあつ子がここに?倫太郎は驚いて振り返ると、ほとんど部屋着のまま、コートだけ羽織って駆け寄ってくるあつ子の姿があった。そしてあつ子を守るかのように半身前になって一緒にいる大柄な見慣れぬ男がひとり。
「今日はやけに懐かしいメンツに出会う日だな!」
倫太郎は驚いた。あつ子と一緒に掛けてきたのは、これまた中学時代に友達だった郷島という男だった。郷島が言うには、街で偶然袴田の計画を聞いて、袴田が倫太郎に対して十年以上も逆恨みに似た感情を持っていることを知った。さらに、袴田は倫太郎の住んでいるところを知っていて、今にも襲おうとしていることも。倫太郎が危ないので心配して自分も住所を突き止めて向かった。そしたら家の中がやけに静かなので、もしかしてもう袴田に襲われたあとなのかもしれないと思い、意を決して中に入ろうと玄関扉に手を伸ばしたところ玄関は意外にも簡単にひらいた。襲撃こそまだだったが、中にいたあつ子さんに事情を説明して倫太郎の危機を知ったあつ子が飛び出していったので、自分も二人を守るためについてきたとのことだった。
「心配してくれるのはありがたいし、何より郷島と再開できたのは懐かしくてうれしいが、ファイトクラブはおれが始めたこと。おれが決着をつけないとなるまいよ」
倫太郎は袴田と合う決心をした。
「気をつけろよ。袴田は銃を持ってるかもしれないぞ」
嫌なことを聞いてしまった、と倫太郎は今した決心をさっそく後悔しはじめた。

ふたたび対峙した倫太郎と袴田。二人の決闘は避けられなかった。ファイトクラブ以来闘いを避けてきた倫太郎と、十年以上にわたってかなり場数を踏んできたであろう袴田。勝負は始める前からついているようなものだった。だが、倫太郎は決着をつけねばならかなった。相手の懐まで近づいてのインファイトスタイル。中学生くらいの子供のケンカならインファイトで戦えるやつはなかなかいないので当時は最強だったが、ケンカ慣れしている大人、しかもアウトファイトスタイルを得意とする袴田に対しては最悪の相性だった。とにかく相手に突っ込んでいかないと闘えないので、そこを向かいうちされる。軌道の読めない袴田のフリッカージャブが、吸い込まれるかのように倫太郎の顔面に全弾クリーンヒットした。傍から見ていると、まるで倫太郎がわざわざ当たりにいっているようだった。決着がついた。倫太郎が3度めにうずくまったとき、誰もがそう思った。袴田は満足そうに倫太郎を見下すと、懐から銃を取り出した。まさか、撃とうとしてる!?不穏な展開に郷島とあつ子は戸惑うなか、倫太郎ひとりだけがチャンスとばかりにこの機を逃さなかった。銃を手にした人間には必ずスキが生まれる。抜いたら即発射するようなプロでもない限り、袴田とて例外ではないのだ。倫太郎は銃を持った相手に対する立ち向かい方について、軍からレクチャーを受けていた。危険な国への海外出張も多いため、最低限の護身術として身につけていたのだった。もちろん、銃を持った相手には素人は下手に抵抗しないことが一番の護身術だが、それでもどうにもならないとき、銃を持った相手を制圧する方法があるのだ。倫太郎は最後の力を振り絞って、練習したとおりに左右にステップを踏みながら袴田に突進した。あれほど不可能だった袴田の懐に、いとも簡単に飛び込めた。本能的に相手は銃を守ろうとするので、銃を持った手と反対側に回り込む。王手だ。脇を締めて、渾身の力で足と腰を回転させ、ありったけのパンチを袴田に叩き込む。腕は絶対に前に出さない。胸の高さで固定して、とにかく体を回転させるのだ。1発。2発。3発。4発目から数えるのをやめた。勝負あった。袴田の体には、建物から落下したほどの衝撃が加わったことになる。無事ではすまないだろう。いくら逆恨みされてたなかでの決闘とはいえ、かつての旧友の体を案じた。とそのとき、にぶい銃声がひびいた。あっこれしくじったかも。銃を持った相手の懐に飛び込んだら、パンチ撃ちまくるのは間違ってたっけ?倫太郎は一瞬そんな呑気なことを思った。そして思考に遅れてやってくる、脇腹の鈍い痛み。撃たれた。倒れ込んでくる倫太郎の体をはねのけると、袴田は硝煙の上がる拳銃を手にしたままほうぼうの体で逃げていった。駆け寄る郷島。
「はは、最後にしくじっちゃったよ。郷島」
「バカ!しゃべんな!今救急車呼ぶ!」
救急車よりは消防車にのってみたい、そう答えようとしたところで、倫太郎の意識は途切れた。

奇跡的にピストルの弾は内蔵をすべて避けて貫通したので、あとは炎症や化膿がみられなければ2週間の退院で済むことになった。あのあと袴田は捕まって、別件で近所を騒がせていた強盗殺人事件の犯人だったこともあって緊急再逮捕された。あつ子はとても心配したが、倫太郎の意識が戻ると危険な行為に対して抗議した。もう二度とあんなことはしないと約束して、倫太郎は許してもらった。「それにしても」毎日看病にきてくれる郷島はあの決闘を振り返って聞いてきた。「よくあの袴田に勝てたな。倫太郎はあれ以来格闘技とかもやってないんだろ?」銃を持ったときの油断。あれほど素手のときでは近づくことさえできなかったのに銃を手にした途端に簡単に懐まで飛び込めた。結局のところ道具による慢心が勝敗を分けたのかもしれないと倫太郎は分析した。
「でもお前その銃で撃たれたじゃん。たまたま命は助かったけど偶然が重ならなきゃ結局はその銃でやられてたんじゃん?」
そういってくる郷島の主張も、もっともだと思った。