Mamusan COFFEE

コーヒーを売らないコーヒー屋。マムさんコーヒー。

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侵入者

あつ子が倫太郎と同棲をはじめた経緯を話すためには、まずあつ子が大学時代に所属していたサークル「カスタネット研究会」について説明しなければならない。あつ子と倫太郎はそこで出会ったからだ。カスタネット研究会は日本におけるカスタネットの歴史そのものといっていいほど由緒正しい同好会だったが、最近は、少なくともあつ子が入ったときにはすでに有名無実化してしまっており、いまでは主な活動内容はクラブDJとなっていた。カスタネット研究会の部員はみんな、DJプレイの練習にあけくれていた。あつ子が入部したきっかけも、入学したばかりのときの友達に誘われて初めて行ったクラブイベントで勧誘を受けてのことだったし、市内に3件あるクラブのイベント時には必ずカスタネット研究会の部員がDJとして動員されるようになっていた。あるときあつ子は「なんでうちの部ってカスタネットじゃなくてDJやるようになったんですかね?」という至極自然な疑問を部長にぶつけてみたが、部長から帰ってきた答えは「同じ打楽器だから」という簡単なものだった。あつ子は一瞬納得しかけたが、ターンテーブルは打楽器じゃないしそもそも打楽器しばりならいいっていう理屈も変だし、結局余計にもやもやが増えるばかりだったが、この部長に突っ込むだけ無駄だと知っているだけに素直な疑問を投げかけた自分を呪った。倫太郎はカスタネット研究会においてふだんは半ば幽霊部員と化していたがイベントには必ず出席していた。エースDJというほどでもなかったがオーディエンスにはそこそこ人気があるらしく、好意を寄せる女性も少なくなかったが不思議と倫太郎の周りに女性の影が見えることはなく、つまりモテている様子があまりなく、あつ子にしてみても最初はどうでもいい存在の1人だった。そんなあつ子と倫太郎の仲が急接近したのは、あるクラブイベントで“倫太郎が”痴漢されていたのを、あつ子が助けたことがきっかけだった。

その日のイベントは、なぜか荒れる予感を部員誰もが感じていた。カスタネット研究会と伝統的に犬猿の仲であるミリタリー同好会が参加していたからかもしれない。とにかく開始早々からフロアが緊張した雰囲気に包まれていた。文化系部会の名前と活動名が一致しないのは校風なのか、ミリタリー同好会の普段の活動内容は、古着の収集と販売だった。ただ古着に対しての見解が多少過激な面があり、たとえば編上げブーツはゲッタグリップしか認めないなど個人の信条を全面に押し付けてくることが周りから疎まれていた。この日も倫太郎はドクターマーチンを履いてきたことが、絡まれる原因となっている。DJプレイが終わったあとの倫太郎をそういえばみかけないなとあつ子が思っていた矢先、クラブ裏口の階段踊り場でミリタリー同好会の連中5人に囲まれている倫太郎を発見する。全員パンツを脱いでいて、パオンパオンさんがパオンパオンしてる状態で倫太郎も脱がされていてパオンパオンな感じになっていて、はじめ見たときあつ子は思わず吹き出してしまった。だが、すぐに事態を把握したあつ子は、普段からミリタリー同好会の連中には悪感情を抱いていたこともあり、うちの部員にひどいいたずらをしている現場を目撃して怒りに湧いた。1人の顔面にめがけてグーで殴るやいなや、あっというまに大学生の男5人を追い払った。あとに残された、ちょっとした危機を乗り越えた吊り橋効果の若い男女ふたり、1人はすでに下半身が露出している。この日、二人の関係はあっという間に近くなった。

「おかしいな、倫太郎の帰りが遅い……。なにもなければいいけど」婚約者の帰りを心配したあつ子は、不意にひとり言をもらした。大学卒業後、お互い別々の道を歩んで一旦は関係が別れたものの、カスタネットメーカーに転職した倫太郎とカスタネットデザイナーとなったあつ子が仕事で訪れたジャカルタカスタネット工場で偶然にも再開し、その後関係を重ねて婚約、同棲を始めるに至るまでは時間はかからなかった。社会人の、大の大人の仕事の帰りが遅いくらいで普段は特に心配などしたことがないが、ここ最近あつ子には妙な胸騒ぎがあった。あつ子たちの身辺で明らかに誰かにつけられている気配がしていたからだ。今も、そう。玄関扉の向こうに、気配を殺した何者かがいる。なぜそう思うのか自分でもわからないが、それは確信に近かった。あつ子がもともと気が強いタイプの人間とはいえ、得体の知れない何者かに付け回される毎日は恐怖であった。何故。誰なの。何の目的で。気が滅入りそうだった。「倫太郎、早く帰ってきて」玄関の鍵はちゃんと閉めていたっけ、ふと不安がよぎったと同時に、なんと玄関の向こうに立っている男――この時点では正体不明だが、特に理由もなくあつ子はおそらく男だと確信していた――は不敵にも玄関扉をあけてきた。あつ子の不安は的中した。鍵は閉め忘れていて、無情にも扉はこともなげに開いた。そこに立っていたのは、見知らぬ男。大柄で顔色が悪く、不気味な印象があつ子の恐怖を増大させる。扉を開けた男はあつ子を確認すると無表情のままゆっくりと、部屋の中に入ってきた。(続く)