Mamusan COFFEE

コーヒーを売らないコーヒー屋。マムさんコーヒー。

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弥平とヴァイオリン

夕方に差し掛かり日が陰り始める頃、駅前の路上に立ち、暗くなるまでの2時間ほどヴァイオリンを弾く。それが弥平の日課だった。

曲は主にクラシックやジャズを中心としていたが、ポピュラーミュージックなども積極的に取り入れていた。最新の曲にあまり詳しいほうではないが、二度三度ほど聞けばアレンジしてヴァイオリンで弾ける、そういう才能が弥平にはあった。6尺はあるかという大柄な体に、禿げ上がった頭、口元が隠れるほど伸ばした口ひげは全て白くなっている。既製品の厚手のジャケットを着込み、苦悶の表情がぴたりと張り付いたかのような悲しげな表情をしたこの老人が、笑っている姿を見たものは一人も居なかった。いつから始めたのか、1年位前なのかそれとも10年ほど経っているのか、もしかして生まれたときから続けていたのかもしれない、誰もがそう感じてしまうほどに、弥平が駅前でヴァイオリンを弾いているのは当たり前の光景であった。人通りもそこそこ多いこの駅前で、誰も弥平に注目していなかった。

何の曲を弾いているときだったか、弥平はふと自分の演奏に足を止めた男がいることに気がついた。珍しいこともあるものだと、弥平本人さえも思った。演奏を終えて男の顔をみてみると、男は泣いていた。「私は感動などしたことがない。だがあなたの演奏を聴いて初めて心が洗われたような気持ちになった。こんな気持ははじめてだ。また聴きたい。毎日ここで演奏しているのか」と男は問うた。弥平は毎日ここで演奏していることを告げると、男は「あなたの演奏でわたしの心は安らぐ。必ず毎日ここに来る」と言い残して立ち去った。

果たして男は言ったとおり、毎日弥平の演奏を聴きにきた。はじめは弥平もこの男に心を開かなかったが、毎日来ては毎日涙を流すこの男にしだいに親近感を覚えるようになった。弥平が何十年と駅前での演奏を続けてきて初めてできた、たったひとりの聴衆だった。男は自分が、罪を犯した人間であると語った。つまり元犯罪者であると。刑務所を行ったり来たりの人生だった自分が、音楽に感動するなんて思ってもみなかった、最後に刑務所から出てきてからもろくな仕事にもありつけず、辛い毎日ばかりでますます世間を恨むようになっていた、この音楽に出会えて、本当に心の底から安らぎを得た、今では自分の人生の全てが反省のもとにあるとさえ思えると男は語った。弥平は男の身の上に興味はなかったが、自分の演奏が彼のためになっていることについて悪い気はしなかった。弥平は今日まで、誰のために演奏しているわけでもなかった。強いて言えば自分のため。そして妻と息子のため。いや、そんなものではない、ただ単に手にヴァイオリンがある、だたそれだけだった。だがこの男が現れてから、弥平にそのつもりがなくても知らず知らず自分の演奏がこの目の前の哀れな元犯罪者のためになっている、そのことに少し運命めいたものを感じずには居られなかった。

ある雪の日、男は更に詳しく身の上を語り始めた。弥平は男の話に耳を傾けるでもなく、ただ淡々とヴァイオリンをかきむしる。寒い今日に似つかわしくなく、なぜかニ短調の激しい曲ばかりを演奏してしまう。

はじめて人を殺したのは14歳のときだった。相手は自分の祖母だ。男はそう切り出した。

物心ついたときから、父親は居なかった。いつも違う愛人と酒を飲んでばかりの母親。小さい妹。そして優しいおばあちゃん。それが男の世界の全てだった。母親は1週間ほど家を開けるときもあるし愛人と何ヶ月も家に入り浸ることもあった。連れてくる愛人は毎回違っていたが、どいつもこいつも最低のクズだった。男や妹に暴力を奮った。母親が居ない日はほとんどおばあちゃんの家にあずけられるのでよかったが、母親が愛人を連れて家にいるときが地獄だった。妹は3歳になってもおしめが取れず、うさぎを飼うケージに入れられていた。男が出してあげようとすると愛人に蹴り上げられた。意識が失いそうになるほど痛いし吐き気もするが、実際に吐いてしまうとベランダに出されて水をかけられるので、必死に我慢した。妹は言葉が喋れるようになるのも遅いらしく、泣いてばかりいたので愛人からの暴力はもっとひどかった。革のベルトを二つ折りにして思いっきりしならせて叩かれていた。一度酔っ払っているときにベルトの金具の部分で妹をぶち、あとからわかったが妹はふとももを骨折していた。そんなときも母親は助けもせず、ただ酒を飲んでへらへらと笑っているだけだった。たまに自ら暴力に参加することもあった。

この小さい兄妹たちの、唯一の心の拠り所がおばあちゃんだった。おばあちゃんは、本当の父親のお母さんだったのだが、父親は妹が生まれてすぐ死んだらしかった。優しいおばあちゃん。大人の顔色をうかがわなくてすむこの祖母の存在が男にとっての唯一の心の拠り所であったのだ。そんなおばあちゃんからお金をもらうことを、いつも母は強要した。おばあちゃんの家から帰るときには必ず「おこづかい」を10万円ほど無心するように、男と妹に課していた。そんな生活が何年も続いた。

「ふざけんな!これしきの金!もっと取ってこい!」

その日の母親もひどく酔っていた。ただ、なにか気に入らないことでもあったのか、いつもどおりおばあちゃんからの「おこづかい」を母親に渡しても、足りないとわめいてきたのだ。男は心底震え上がった。母親の隣りにいた愛人がにやけながらゆっくりと立ち、妹の顔を殴りはじめた。労働者風の大柄な大人が、何の手加減もせず無抵抗な妹を黙って殴り続ける。母親はそれを見てただにやにやしている。男は必死に妹をかばった。だが無駄だった。愛人に投げ飛ばされ、壁に体を強く打ち付けた。

「だから言ってんだろ!金を奪ってこい!わかってるだろ!?殺してでも奪ってくるんだよ!あの糞ババア!」

母親は息巻いた。愛人は妹を殴る手を止めない。酒と汗の匂いが充満して家中が臭かった。男は顔面が真っ青になりながら金属バットを手に取ると、おばあちゃんの家に走った。

「あら?さっき帰ったばかりなのに、どうしたの?――」

男を迎え入れたいつもの優しいおばあちゃんに向かって一発。

声を発する間も無くさらに二発め、三発め。金属バットを容赦なく振り下ろす。

暴力の仕方はわかっていた。物心ついたときから入れ代わり立ち代わりその身をもって大人たちに仕込まれていたのだから。十二発め、十三発め。脳症が飛び散り、すでに顔がなくなったおばあちゃんの体は振り下ろすバットの勢いでびくんびくんと跳ねる。

「っっっ糞があああぁぁっっっ!っだらああっっっ!!」

男の中で何かが切れた。今まで発したことのない怒りをバットにのせて、何度も何度も叩き伏せた。こうでもしないと妹が殺される。それが男の世界の全てだった。

その翌日には男の事件は新聞を賑わせた。「遊ぶ金欲しさの少年、育ての祖母を殺害し金を奪って逃走」男はあっけなく捕まり、少年院に入れられた。

院で出会った「お仲間たち」から鍵開けや窃盗のスキルを学び、少年院を出る頃にはすっかり一人前の犯罪者として成長してしまった。少年院から出てきたばかりの男に、妹はとっくの昔に死んだことを母親はあっさりとした表情で告げた。以後、空き巣や窃盗、恐喝や強盗を繰り返し、三〇年の実刑を食らって刑期を終えて出てきたが何の反省もないまま初老に至る、それが男の人生のすべてであった。弥平のヴァイオリンに出会うまでは。私は今まで悪いことをしてきた。こんな犯罪者の自分でも、音楽を美しいと思える心はあったんですねえ、ありがとう、本当にありがとう、また来ます。男はそう言って、家路についた。

明くる日。

いつもどおり演奏するなら、もうすぐ駅に向かうために家を出なければいけない時間だが、弥平はまだ決め兼ねていた。いつも以上に苦悶に満ちた表情で顔を歪ませ、弥平は真っ青になりながら滴り落ちるほどの脂汗を袖でぬぐった。

斧を手に取るか、ヴァイオリンを手に取るか。

復讐。その炎を消すのに三〇年かかった。なんという運命のいたずらか。

今でも夢に見る。顔のわからない男の首に手をかけ、締め付ける。何故。何故だ。男に激しく問い詰めながら、力を強めていく。何故、妻と息子なんだ。あと一息。あと一息喉を締め付ければ、復讐を果たせる。そのときになって悲しそうな顔をした妻と息子の姿が浮かぶのだ。三〇年前と何一つ変わらない姿で。

はっと首にかけていた手を離した瞬間に目が覚める。いつも脂汗でびっしょりだ。三〇年間、いつもこうだった。

強盗だと?あの男は強盗だと言った。だが間違いなくやつは強盗殺人を犯している。三〇年前、弥平の妻と息子を殺害したのはあの男だ。間違いなかった。

弥平の妻と息子は、縛られて無抵抗のまま、なぶり殺しにされていた。妻は顔だけを重点的に殴り続けられた様子だった。妻の美しい顔が、見るも無残に腫れあがっていた。息子はまるで蹴球のように蹴り上げられ、遊びながら殺されたかのようだった。家じゅうの壁やガラス戸に打ち付けられたようで、ふたりとも意識のあるまま何時間にも渡って暴行を受けていた。コンサートから帰ってきた弥平を待ち受けていたものは、家族の凄惨な殺害現場だったのだ。物言わず、動かなくなった大切な妻と息子は、変わり果てた姿でただ虚空だけをみつめていた。

最初、復讐を考えなかった日は一日もなかった。犯人は捕まったと聞いたが、なぜ自ら法を犯した者が、法に守られているのか理解ができなかった。しかしながら妻も息子も、復讐を望んでいるわけではないことはよくわかる。ここで自分までもが犯人と同じ立場に落ちてしまえば、その魂を貶めたのは他でもない被害者である妻と息子たち本人のせいということになる。これ以上愛する者の魂を貶めたくない、それだけは避けたい一心で苦悩し続けてきた。

為す術もなかった弥平は、ただヴァイオリンを弾き続けるしかなかった。鎮魂とか贖罪などというものではない。ただただ他に為す術がなかったのだ。

あの男は犯罪者でも音楽を美しいと思うことができると言った。弥平のヴァイオリンが荒んだ人生の一人の男の心の拠り所となり得たことが、弥平を余計に苦しめる。個人的に憎むべき相手に、音楽を弾くことは出来るのだろうか。

弥平は決心した。

ゆっくりと立ち上がり、斧を手に取った。そして斧を手にしたままふらふらとヴァイオリンの前に立ち、その楽器めがけて斧を振り下ろした。