Mamusan COFFEE

コーヒーを売らないコーヒー屋。マムさんコーヒー。

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ゴーストライダー

 バスケ部のレギュラーから落ちたことで、おれは明らかにイラついていた。自分でもわかるくらいに周囲から孤立し、何もかもがうまくいかない。街で噂になっているゴーストライダーに出くわしたのは、ちょうどそんな時期だった。

 長距離トラックで渋滞する国道2号線を避けるかのように東西に沿っている、阿品台からバイパスを結ぶ通称ナタリー街道。こんな細いところに入ってこの先本当に広い道があるの?ってところから始まることと、地図で見る限りでは入り組んだ生活道にみえるためよそ者がナビの案内でこの道を使うことはほとんどないことで、地元のものだけが知る快走路として利用されている。そのナタリー街道に、出るらしい。と、噂されている。何がって、だから、ゴーストライダーが。深夜3時にさしかかるころ、ナタリー街道をバイクで走っていると後ろにぴったり付いてくるもう一台のバイクの存在を感じるらしい。バックミラーには何も映っていないので、おかしいなと思いながらも走り続けていると、突然血だらけのライダーが乗ったバイクに追い抜かれる。抜かれたやつはその場で事故るとも、3日以内に不幸が起きるとも言われているが、そのへんは諸説あって確かなことはわからない。だが、ゴーストライダーの存在だけは、部活仲間の先輩がバイト先の友達の兄キも見たって言うし本当のことだとおれも思っていた。

 ふだんは夜中の3時頃にナタリー街道を走る用事なんてないのだが、その日は違っていた。思いつきでやりはじめた、母親の買い物用スクーターにパワーフィルターを取り付ける作業をしているうち、キャブレーターのセッティングに思いのほか時間がかかってしまったからだ。気がついたら時計の針は深夜2時を過ぎていた。せっかくできたファイナライズの乗り味を試そうと、夜中の試験走行に都合の良い道としてナタリー街道を疾走していたのだった。

 いる。ゴーストライダーが後ろについてくる。街道を走りはじめてすぐ、不気味な気配が背後にまとわりついた。4ストの音?カブか?パワーフィルターとビックキャブで吸気系をチューンした2スト50ccのヤマハJOGの音に混じって、背後から聞こえるその音はまちがいなくホンダスーパーカブのエンジン音だった。モンキーやベンリィと違うのはミッションチェンジ音でわかる。本来なら2スト50ccのジョグに4ストのカブがついてくることは不可能だが、ストローク音の不自然さから察するにボア・ストロークアップを行っているらしい。低い音域から唸りを上げるその排気音は、まさしく怨霊の咆哮のようで、今にも後ろから首根っこを掴まれて異界へ連れ込まれてしまいそうだ。ヘッドライトに映らないそのゴーストライダーはおれのうしろ1cmスレスレでぴったり後をつけ、少しでも速度を緩めれば命が危ない。80km/h。82km/h。82.5km/h……。前後10インチのタイヤはこの速度域で路面の小さなギャップを拾ってしまい今にも吹き飛びそうだ。アンダーボーンフレームはぐにゃぐにゃとゆれ曲がり、トップブリッジにマウントされたハンドルを押さえることができない。ヤマハJOGの限界がきている。「やられる!」看護学校の寮手前の交差点直前に差し掛かり、もうだめだと思った瞬間。ゴーストライダーはすかさずおれの横に出て抜き去っていった。一瞬のできごとだった。あっというまに見えなくなった。とにかく助かったと思う安堵の気持ちでいっぱいだった。

 はじめてゴーストライダーと遭遇したあの日以来、おれは雪辱を果たすためナタリー街道を走り込んだ。バイクからあまりうるさい音が出るのが嫌いだったため排気系は特に何もいじっていないが、前回と変わらずの吸気系のパワーアップに加えて点火系統と足回りを強化した。そこそこチューンのオカンJOG。四輪以上にタイヤの接地面積が小さい二輪はコーナー手前の減速が鍵になる。高速コーナーにしっかり減速して突入してコーナー出口の立ち上がりを加速力で稼ぐのだ。馬力と足回りを強化したこのチューニングが最適解のはずだ。ゴーストライダーに勝つべく、おれは何度も何度も深夜の街道を走った。走り込んでいるうちに、前回抜かされた交差点前のわきにいつも一輪の花が供えられていることに気がついた。全速力のさなかでも、道路わきの状況にまで注意が及ぶことができるほどになったのだ。時は満ちたのだ。マシンもおれも最高のコンディションに仕上がった状態でふたたびゴーストライダーに出くわしたのは、あの日と同じくらい蒸し暑い熱帯夜の深夜だった。

 怨霊の咆哮をあげて、後ろにゴーストライダーがついた。絶対に抜かせない。リードを保ったままタイトコーナーを連続でさばく。リーンインの絶妙な体重移動で切り抜ける。まるで自分がコマになったかのように、世界がおれを中心に回転していく。引き離した。バックミラーにこそ映らないものの、コーナーをクリアするたびゴーストライダーとの距離が少し開くのを感じる。ここまではいいぞ。ボア・ストロークアップされたスーパーカブのエンジン音が、悲鳴にも似た唸り声を上げる。最後の高速コーナー。リーンウィズで突っ込む。しまった。刺された。わずかにコーナーインが甘かったのか、ゴーストライダーはすかさず内側から刺してくる。並ばれた。こうなればコーナー出口から交差点までの直線で勝負だ。最大の加速をこころみる。体重を後ろにずらし、リアショックをガチガチに固め、後輪の駆動力を最大限に路面に伝え加速していく。吸気系チューンした2ストJOGと、ボアアップした4ストカブの直線勝負。JOGのほうも甲高いエンジン音を轟かせ立ち上がり一直線に加速する。抜けた!

 叫ぶゴーストライダーを一気に突き放す。やった!勝った!そのまま交差点を突っ切る。おれの勝ちだ。

 と思った刹那。

 交差点南から侵入してきたトラックを左端の視界に捉えた。やっちまった。不思議と心には余裕があった。たぶん、これから起こることの実感がわかないのだろう。

 トラックはおれの左半身を強く打ち付ける。まるで時が止まったみたいに全てが把握できる。そのままJOGごとふっとばされた。意識がある中で最期に見えたのが、宙を舞うJOGにくっついている、くしゃくしゃに曲がった前カゴだった。

 信じられないことに、一命をとりとめたのはふだんからリュックに入れて背負っているバスケットシューズがクッション代わりになったからだった。あの時間帯、トラック側の信号が赤の点滅信号、つまりトラックは一時停止からの発進直後だったことも不幸中の幸いだった。つまりおれは助かった。1年くらいはバイクに乗るのはこりごりだったが、のどもとすぎればというのか、けっきょくのところ何やかんやでおれは今もバイクに乗っている。世間ではレーサーレプリカがブームのなか、発売したばかりのスティードや最近ようやく注目されだしたSRなんかを尻目に、VFRでV4型カフェレーサーという風変わりなカスタムを施している。

 あの日以来、ゴーストライダーの噂は聞かなくなった。かわりに、ちょっと昔の気の毒な少年の話を聞いた。

 その少年もバスケ部に所属していて、新聞配達のバイトをしながら部活に打ち込んでいたそうだ。ある日、新聞の配達が遅れてバスケの朝練に遅れそうになったとき、あそこの交差点で事故ったらしい。そういえば交差点にいつも花が供えてあるのを見かけた。本当にあのゴーストライダーが事故った少年なのかは誰にもわからない。おれの事故も、ゴーストライダーが誘発したんじゃないかと言う人もいる。だがおれはちがうと思う。ゴーストライダーはきっと、自分が追い抜くことで事故の身代わりになろうとしていたんだと俺は信じている。なぜなら、あのとき聞こえたからだ。ゴーストライダーを追い越したとき、はっきりと「あぶない!」という声が。

 あれからバスケ部にも復帰して念願のスタメン入りも果たせた。県大会では二回戦止まりだったけど悔いはない。JOGも奇跡的にも前カゴとカウルが少しやられただけで済んだので、いまだに母親が買い物に使っている。吸気系ゴリゴリのバイクで買い物にくる、生協ストア最速のオバハンとの異名で有名になっていることを、母親は知らない。

接近

「鍵をかけとけばよかった」男が玄関から部屋に侵入してきたとき、真っ先に考えたのがこのくだらない後悔だったくらい、あつ子は恐怖によって混乱していた。誰なの?なんで?身を守るものはあるかしら?フライパンはどう?でも下手に相手を刺激したらどうしよう?結局、フライパンを持とうか持つまいか決め兼ねたままいちおう持っとこうかなくらいのつもりで伸ばした手が空を切った。フライパンは台所に置いてあるので、あつ子のいるこの場所は台所からは少し遠い。そうこうしている間にも男はゆっくりとあつ子に近づいてきた。混乱と恐怖は増すばかりで、あつ子は大声を上げることさえ出来ず身構えた。

そのころ、倫太郎は旧友と対峙していた。バーや居酒屋が立ち並ぶ市内唯一の歓楽街。その表通りから一本路地裏に入った薄暗い裏通り。明るさや騒々しさが微塵も感じられない、暗く湿った古い雑居ビルに囲まれた通路で、この恐ろしい友と相対せねばならなかった。
「久しぶりだね。袴田くん」
目の前の男は、かつて中学生時代に倫太郎とともにファイトクラブを立ち上げた旧友だった。数ヶ月ほどたって倫太郎が急に怖くなり、足が遠のいていたときに参加者の1人が死んでしまう事故が起きて、それっきりになっていた仲だった。その、参加者を死なせた張本人が、眼の前にいる袴田という男だ。袴田は、四角いふちなしメガネの奥から爬虫類のような目をぎょろりと覗かせると、倫太郎に対して敵意を剥き出しにして睨みつけてきた。あのとき、あのあと、袴田がどうなったのか結局覚えていない。事故として済まされたのか、事件として扱われたのか。袴田に関わるのが怖くて避けていた。ただ、風のうわさでその後袴田はあまりよくない人生を歩んでいることはなんとなく聞いていた。刑務所にしばらく入っていたとか、暴力団に入ったとか、そういった類の噂をよく耳にした。中学生時代の、ほんの一瞬のできごとを、倫太郎はずっと引きずるのが怖かった。だから今まで袴田のことを考えるのを先延ばしにしてきた。その不義理のツケが今襲いかかっているのだ。幾往復かの口論の末、袴田は「またお前に会いに行く」という言葉を残して去っていった。それは宣戦布告に近かった。
「倫太郎さーん!」
突然、後ろからあつ子の声がした。まさか?なぜあつ子がここに?倫太郎は驚いて振り返ると、ほとんど部屋着のまま、コートだけ羽織って駆け寄ってくるあつ子の姿があった。そしてあつ子を守るかのように半身前になって一緒にいる大柄な見慣れぬ男がひとり。
「今日はやけに懐かしいメンツに出会う日だな!」
倫太郎は驚いた。あつ子と一緒に掛けてきたのは、これまた中学時代に友達だった郷島という男だった。郷島が言うには、街で偶然袴田の計画を聞いて、袴田が倫太郎に対して十年以上も逆恨みに似た感情を持っていることを知った。さらに、袴田は倫太郎の住んでいるところを知っていて、今にも襲おうとしていることも。倫太郎が危ないので心配して自分も住所を突き止めて向かった。そしたら家の中がやけに静かなので、もしかしてもう袴田に襲われたあとなのかもしれないと思い、意を決して中に入ろうと玄関扉に手を伸ばしたところ玄関は意外にも簡単にひらいた。襲撃こそまだだったが、中にいたあつ子さんに事情を説明して倫太郎の危機を知ったあつ子が飛び出していったので、自分も二人を守るためについてきたとのことだった。
「心配してくれるのはありがたいし、何より郷島と再開できたのは懐かしくてうれしいが、ファイトクラブはおれが始めたこと。おれが決着をつけないとなるまいよ」
倫太郎は袴田と合う決心をした。
「気をつけろよ。袴田は銃を持ってるかもしれないぞ」
嫌なことを聞いてしまった、と倫太郎は今した決心をさっそく後悔しはじめた。

ふたたび対峙した倫太郎と袴田。二人の決闘は避けられなかった。ファイトクラブ以来闘いを避けてきた倫太郎と、十年以上にわたってかなり場数を踏んできたであろう袴田。勝負は始める前からついているようなものだった。だが、倫太郎は決着をつけねばならかなった。相手の懐まで近づいてのインファイトスタイル。中学生くらいの子供のケンカならインファイトで戦えるやつはなかなかいないので当時は最強だったが、ケンカ慣れしている大人、しかもアウトファイトスタイルを得意とする袴田に対しては最悪の相性だった。とにかく相手に突っ込んでいかないと闘えないので、そこを向かいうちされる。軌道の読めない袴田のフリッカージャブが、吸い込まれるかのように倫太郎の顔面に全弾クリーンヒットした。傍から見ていると、まるで倫太郎がわざわざ当たりにいっているようだった。決着がついた。倫太郎が3度めにうずくまったとき、誰もがそう思った。袴田は満足そうに倫太郎を見下すと、懐から銃を取り出した。まさか、撃とうとしてる!?不穏な展開に郷島とあつ子は戸惑うなか、倫太郎ひとりだけがチャンスとばかりにこの機を逃さなかった。銃を手にした人間には必ずスキが生まれる。抜いたら即発射するようなプロでもない限り、袴田とて例外ではないのだ。倫太郎は銃を持った相手に対する立ち向かい方について、軍からレクチャーを受けていた。危険な国への海外出張も多いため、最低限の護身術として身につけていたのだった。もちろん、銃を持った相手には素人は下手に抵抗しないことが一番の護身術だが、それでもどうにもならないとき、銃を持った相手を制圧する方法があるのだ。倫太郎は最後の力を振り絞って、練習したとおりに左右にステップを踏みながら袴田に突進した。あれほど不可能だった袴田の懐に、いとも簡単に飛び込めた。本能的に相手は銃を守ろうとするので、銃を持った手と反対側に回り込む。王手だ。脇を締めて、渾身の力で足と腰を回転させ、ありったけのパンチを袴田に叩き込む。腕は絶対に前に出さない。胸の高さで固定して、とにかく体を回転させるのだ。1発。2発。3発。4発目から数えるのをやめた。勝負あった。袴田の体には、建物から落下したほどの衝撃が加わったことになる。無事ではすまないだろう。いくら逆恨みされてたなかでの決闘とはいえ、かつての旧友の体を案じた。とそのとき、にぶい銃声がひびいた。あっこれしくじったかも。銃を持った相手の懐に飛び込んだら、パンチ撃ちまくるのは間違ってたっけ?倫太郎は一瞬そんな呑気なことを思った。そして思考に遅れてやってくる、脇腹の鈍い痛み。撃たれた。倒れ込んでくる倫太郎の体をはねのけると、袴田は硝煙の上がる拳銃を手にしたままほうぼうの体で逃げていった。駆け寄る郷島。
「はは、最後にしくじっちゃったよ。郷島」
「バカ!しゃべんな!今救急車呼ぶ!」
救急車よりは消防車にのってみたい、そう答えようとしたところで、倫太郎の意識は途切れた。

奇跡的にピストルの弾は内蔵をすべて避けて貫通したので、あとは炎症や化膿がみられなければ2週間の退院で済むことになった。あのあと袴田は捕まって、別件で近所を騒がせていた強盗殺人事件の犯人だったこともあって緊急再逮捕された。あつ子はとても心配したが、倫太郎の意識が戻ると危険な行為に対して抗議した。もう二度とあんなことはしないと約束して、倫太郎は許してもらった。「それにしても」毎日看病にきてくれる郷島はあの決闘を振り返って聞いてきた。「よくあの袴田に勝てたな。倫太郎はあれ以来格闘技とかもやってないんだろ?」銃を持ったときの油断。あれほど素手のときでは近づくことさえできなかったのに銃を手にした途端に簡単に懐まで飛び込めた。結局のところ道具による慢心が勝敗を分けたのかもしれないと倫太郎は分析した。
「でもお前その銃で撃たれたじゃん。たまたま命は助かったけど偶然が重ならなきゃ結局はその銃でやられてたんじゃん?」
そういってくる郷島の主張も、もっともだと思った。

侵入者

あつ子が倫太郎と同棲をはじめた経緯を話すためには、まずあつ子が大学時代に所属していたサークル「カスタネット研究会」について説明しなければならない。あつ子と倫太郎はそこで出会ったからだ。カスタネット研究会は日本におけるカスタネットの歴史そのものといっていいほど由緒正しい同好会だったが、最近は、少なくともあつ子が入ったときにはすでに有名無実化してしまっており、いまでは主な活動内容はクラブDJとなっていた。カスタネット研究会の部員はみんな、DJプレイの練習にあけくれていた。あつ子が入部したきっかけも、入学したばかりのときの友達に誘われて初めて行ったクラブイベントで勧誘を受けてのことだったし、市内に3件あるクラブのイベント時には必ずカスタネット研究会の部員がDJとして動員されるようになっていた。あるときあつ子は「なんでうちの部ってカスタネットじゃなくてDJやるようになったんですかね?」という至極自然な疑問を部長にぶつけてみたが、部長から帰ってきた答えは「同じ打楽器だから」という簡単なものだった。あつ子は一瞬納得しかけたが、ターンテーブルは打楽器じゃないしそもそも打楽器しばりならいいっていう理屈も変だし、結局余計にもやもやが増えるばかりだったが、この部長に突っ込むだけ無駄だと知っているだけに素直な疑問を投げかけた自分を呪った。倫太郎はカスタネット研究会においてふだんは半ば幽霊部員と化していたがイベントには必ず出席していた。エースDJというほどでもなかったがオーディエンスにはそこそこ人気があるらしく、好意を寄せる女性も少なくなかったが不思議と倫太郎の周りに女性の影が見えることはなく、つまりモテている様子があまりなく、あつ子にしてみても最初はどうでもいい存在の1人だった。そんなあつ子と倫太郎の仲が急接近したのは、あるクラブイベントで“倫太郎が”痴漢されていたのを、あつ子が助けたことがきっかけだった。

その日のイベントは、なぜか荒れる予感を部員誰もが感じていた。カスタネット研究会と伝統的に犬猿の仲であるミリタリー同好会が参加していたからかもしれない。とにかく開始早々からフロアが緊張した雰囲気に包まれていた。文化系部会の名前と活動名が一致しないのは校風なのか、ミリタリー同好会の普段の活動内容は、古着の収集と販売だった。ただ古着に対しての見解が多少過激な面があり、たとえば編上げブーツはゲッタグリップしか認めないなど個人の信条を全面に押し付けてくることが周りから疎まれていた。この日も倫太郎はドクターマーチンを履いてきたことが、絡まれる原因となっている。DJプレイが終わったあとの倫太郎をそういえばみかけないなとあつ子が思っていた矢先、クラブ裏口の階段踊り場でミリタリー同好会の連中5人に囲まれている倫太郎を発見する。全員パンツを脱いでいて、パオンパオンさんがパオンパオンしてる状態で倫太郎も脱がされていてパオンパオンな感じになっていて、はじめ見たときあつ子は思わず吹き出してしまった。だが、すぐに事態を把握したあつ子は、普段からミリタリー同好会の連中には悪感情を抱いていたこともあり、うちの部員にひどいいたずらをしている現場を目撃して怒りに湧いた。1人の顔面にめがけてグーで殴るやいなや、あっというまに大学生の男5人を追い払った。あとに残された、ちょっとした危機を乗り越えた吊り橋効果の若い男女ふたり、1人はすでに下半身が露出している。この日、二人の関係はあっという間に近くなった。

「おかしいな、倫太郎の帰りが遅い……。なにもなければいいけど」婚約者の帰りを心配したあつ子は、不意にひとり言をもらした。大学卒業後、お互い別々の道を歩んで一旦は関係が別れたものの、カスタネットメーカーに転職した倫太郎とカスタネットデザイナーとなったあつ子が仕事で訪れたジャカルタカスタネット工場で偶然にも再開し、その後関係を重ねて婚約、同棲を始めるに至るまでは時間はかからなかった。社会人の、大の大人の仕事の帰りが遅いくらいで普段は特に心配などしたことがないが、ここ最近あつ子には妙な胸騒ぎがあった。あつ子たちの身辺で明らかに誰かにつけられている気配がしていたからだ。今も、そう。玄関扉の向こうに、気配を殺した何者かがいる。なぜそう思うのか自分でもわからないが、それは確信に近かった。あつ子がもともと気が強いタイプの人間とはいえ、得体の知れない何者かに付け回される毎日は恐怖であった。何故。誰なの。何の目的で。気が滅入りそうだった。「倫太郎、早く帰ってきて」玄関の鍵はちゃんと閉めていたっけ、ふと不安がよぎったと同時に、なんと玄関の向こうに立っている男――この時点では正体不明だが、特に理由もなくあつ子はおそらく男だと確信していた――は不敵にも玄関扉をあけてきた。あつ子の不安は的中した。鍵は閉め忘れていて、無情にも扉はこともなげに開いた。そこに立っていたのは、見知らぬ男。大柄で顔色が悪く、不気味な印象があつ子の恐怖を増大させる。扉を開けた男はあつ子を確認すると無表情のままゆっくりと、部屋の中に入ってきた。(続く)

ファイトクラブ

ぼくたちがファイトクラブを始めたのは、“いじめ”がきっかけだった。ぼくたちは“いじめられて”いた。その日も、袴田くんとぼくは郷島たちヤンキーに酷いことをされたうえにお金までとられた。とぼとぼと帰り道を歩いているとき、こんな嫌なことが中学卒業まで続くのかと思うと最悪な気分になった。自分に腹が立った。いくら理不尽なことをされてもヘラヘラと取りつくろったり形だけ抵抗するしかできない自分に、とても腹が立った。袴田くんにぼくを殴れと迫った。嫌がる袴田くんに強引に頼み込んで殴らせた。それが最初だった。

暴力。

はじめて味わう、体に撃ち込まれたかのような暴力の味。そのとき気がついたのだ。郷島たちはいつも暴力的な態度でぼくたちを支配するものの、今まで暴力を実行したことはなかった。考えてみれば体格こそ違えど同じ中学生。郷島も怖いのだ。暴力を振るうことが。今この瞬間。暴力の味を覚えたぼくと袴田くんは奴らより一歩抜きん出た。ぼくたちにあって郷島にないもの。それは殴り合いだ。ぼくたちは闘い方をいま知った。このことに気がついたぼくたちは夢中になった。時間は決まって放課後。いつもの場所。体育館裏。ぼくたちだけのファイトクラブのはじまりだ。二人だけではじめたファイトクラブも、気がつけばあっという間に毎日の参加者が10人を超すようになった。ルールは次のとおりだ。闘いの無理強いはしないこと。武器を使用しないこと。勝ったものが負けたものの治療費500円を払うこと。そして誰にもファイトクラブのことをしゃべらないこと、ただしスカウトは例外とする。メンバーは、これはという男を見つけたらスカウトのためならファイトクラブのことを喋ってもいい。ただしスカウトされたものはぼくか袴田くんの“面接”を受けることになる。周りは誰も闘いを無理強いはできないだけに、ファイトクラブのメンバーたるものの人材の見極めは重要だ。もしこれにパスできない人材なら、スカウトしたメンバーのほうが“制裁”をうけることになる。なのでスカウトする側も滅多なことでは新しいメンツを連れてくることはない。べつにファイトクラブのことを極秘に扱うつもりはなかったけど、“邪魔なやつ”が混じることを防ぎたかったのだ。このルールによってファイトクラブの純粋さは保たれていた。あるのは闘いのみ。いるのは闘うやつらのみ。いつしかファイトクラブの存在は男子学生たちの周知の事実であって憧れの的となった。参加希望者が後を絶たない状態のなか、厳選に厳選を重ねメンバーはつねに少数精鋭を保っていた。

この日ぼくたちの“面接”をうけてはれて新メンバーとなったのは二人いた。ひとりは生徒会長。そしてもうひとりはあのいじめっこの郷島だった。ふたりはさっそく実戦に参加することになった。生徒会長の相手は袴田くんだ。袴田くんは長いリーチを活かして距離をとって闘うスタイル。すでにかなり場馴れしているのでよっぽどの格闘技経験者でないと袴田くんに勝てるものはなかなかいない。そんな腕利きのファイターといきなり闘う生徒会長にはかわいそうだが、手加減をしないのもファイトクラブの暗黙のルール。袴田くんに一方的に殴られるばかりの展開だったが、生徒会長にも目を見張るものがあった。さいごのほう、ふらふらになりながらも袴田くんのパンチを避けることができるようになってきたのだ。割合にしておよそ3発に1発。生徒会長は見切ることが出来ていた。軌道の読めない袴田くんのパンチをそのくらいの割合で避けることができるのは、今までのメンバーで誰もいなかった。あと3回ほど実戦を経験すれば、生徒会長もおそるべきファイターになるだろう。ファイトクラブがさらに厚みを増してきた。

そしていよいよ郷島くんとの闘い。むかえ撃つはもちろんこのぼくだ。ぼくの闘い方は、相手の懐に入ってからの腰の回転を使った連打だ。脇をしめて体ごと高速で回転する。全体重と体幹筋肉の力が加わるので、威力はふつうのパンチの比じゃない。どんな体格差の相手でも吹っ飛ぶ。腰の回転を使った打撃なので左右のコンビネーションが読まれやすいが、そんな読みが無意味になるくらいの凄まじい衝撃をガードの上からでもおかまいなく与えられるので、相手の鼻先に入りさえすればほとんど無敵だった。だからというわけじゃないが、正直にいうと少し郷島のことをナメてた気がする。もちろん、面接の時点で郷島にも光るものを感じたのだからメンバーに加えたのだし、口先だけの奴とまでは思ってなかった。少しはやるやつだと思ったから、過去のしがらみは忘れてメンバーに入れたのだ。それでも郷島の力量を見誤っていた。勝負は一瞬でついた。何が起こったのか、ぼくにはわからなかったので、闘いの様子はぜんぶあとから聞いた話だ。開始早々、堂島の懐に飛び込むぼく。その刹那。ぼくの体が宙に浮いたかと思うと一瞬で地面に叩き伏せられた。堂島は柔術経験者だった。すかさず地面に倒れたぼくの逆襟を取って首を絞めた。一秒もたってなかった。ぼくは投げられたうえに“極められた”のだ。この上なく完敗していた。

ファイトクラブにあるのは純粋な闘いの場だけなので、その戦いの結果誰が勝って誰が負けるということはあっても誰が強いとか誰が弱いといったような上下関係はない。いちおう創立者であるぼくと袴田くんは“面接”という役回りを与えられてはいるが、支配者というわけでもないし、これまでだって闘いに負けることだってよくあった。だけど、郷島くんに負けたことはぼくの中でとても大きな負の意味をもってしまった。「いくら強くなった気でいても、かつてのいじめっこにぼくは敵わない」このことがぼくを恐怖に陥れた。急に、闘うことが怖くなった。膨れ上がった風船が急激にしぼむかのように、ぼくの気持ちは萎えてしまった。ファイトクラブに顔をだすことはもうなくなってしまった。郷島も含めたメンバー全員、ぼくのことを心配してくれたが、いちど牙を折られてしまった闘志はふたたび燃え上がることはなかった。

事件があったのはぼくがファイトクラブに顔を出さなくなって数ヶ月後のことだった。袴田くんが生徒会長を殴り殺してしまったのだ。(続く)

弥平とヴァイオリン

夕方に差し掛かり日が陰り始める頃、駅前の路上に立ち、暗くなるまでの2時間ほどヴァイオリンを弾く。それが弥平の日課だった。

曲は主にクラシックやジャズを中心としていたが、ポピュラーミュージックなども積極的に取り入れていた。最新の曲にあまり詳しいほうではないが、二度三度ほど聞けばアレンジしてヴァイオリンで弾ける、そういう才能が弥平にはあった。6尺はあるかという大柄な体に、禿げ上がった頭、口元が隠れるほど伸ばした口ひげは全て白くなっている。既製品の厚手のジャケットを着込み、苦悶の表情がぴたりと張り付いたかのような悲しげな表情をしたこの老人が、笑っている姿を見たものは一人も居なかった。いつから始めたのか、1年位前なのかそれとも10年ほど経っているのか、もしかして生まれたときから続けていたのかもしれない、誰もがそう感じてしまうほどに、弥平が駅前でヴァイオリンを弾いているのは当たり前の光景であった。人通りもそこそこ多いこの駅前で、誰も弥平に注目していなかった。

何の曲を弾いているときだったか、弥平はふと自分の演奏に足を止めた男がいることに気がついた。珍しいこともあるものだと、弥平本人さえも思った。演奏を終えて男の顔をみてみると、男は泣いていた。「私は感動などしたことがない。だがあなたの演奏を聴いて初めて心が洗われたような気持ちになった。こんな気持ははじめてだ。また聴きたい。毎日ここで演奏しているのか」と男は問うた。弥平は毎日ここで演奏していることを告げると、男は「あなたの演奏でわたしの心は安らぐ。必ず毎日ここに来る」と言い残して立ち去った。

果たして男は言ったとおり、毎日弥平の演奏を聴きにきた。はじめは弥平もこの男に心を開かなかったが、毎日来ては毎日涙を流すこの男にしだいに親近感を覚えるようになった。弥平が何十年と駅前での演奏を続けてきて初めてできた、たったひとりの聴衆だった。男は自分が、罪を犯した人間であると語った。つまり元犯罪者であると。刑務所を行ったり来たりの人生だった自分が、音楽に感動するなんて思ってもみなかった、最後に刑務所から出てきてからもろくな仕事にもありつけず、辛い毎日ばかりでますます世間を恨むようになっていた、この音楽に出会えて、本当に心の底から安らぎを得た、今では自分の人生の全てが反省のもとにあるとさえ思えると男は語った。弥平は男の身の上に興味はなかったが、自分の演奏が彼のためになっていることについて悪い気はしなかった。弥平は今日まで、誰のために演奏しているわけでもなかった。強いて言えば自分のため。そして妻と息子のため。いや、そんなものではない、ただ単に手にヴァイオリンがある、だたそれだけだった。だがこの男が現れてから、弥平にそのつもりがなくても知らず知らず自分の演奏がこの目の前の哀れな元犯罪者のためになっている、そのことに少し運命めいたものを感じずには居られなかった。

ある雪の日、男は更に詳しく身の上を語り始めた。弥平は男の話に耳を傾けるでもなく、ただ淡々とヴァイオリンをかきむしる。寒い今日に似つかわしくなく、なぜかニ短調の激しい曲ばかりを演奏してしまう。

はじめて人を殺したのは14歳のときだった。相手は自分の祖母だ。男はそう切り出した。

物心ついたときから、父親は居なかった。いつも違う愛人と酒を飲んでばかりの母親。小さい妹。そして優しいおばあちゃん。それが男の世界の全てだった。母親は1週間ほど家を開けるときもあるし愛人と何ヶ月も家に入り浸ることもあった。連れてくる愛人は毎回違っていたが、どいつもこいつも最低のクズだった。男や妹に暴力を奮った。母親が居ない日はほとんどおばあちゃんの家にあずけられるのでよかったが、母親が愛人を連れて家にいるときが地獄だった。妹は3歳になってもおしめが取れず、うさぎを飼うケージに入れられていた。男が出してあげようとすると愛人に蹴り上げられた。意識が失いそうになるほど痛いし吐き気もするが、実際に吐いてしまうとベランダに出されて水をかけられるので、必死に我慢した。妹は言葉が喋れるようになるのも遅いらしく、泣いてばかりいたので愛人からの暴力はもっとひどかった。革のベルトを二つ折りにして思いっきりしならせて叩かれていた。一度酔っ払っているときにベルトの金具の部分で妹をぶち、あとからわかったが妹はふとももを骨折していた。そんなときも母親は助けもせず、ただ酒を飲んでへらへらと笑っているだけだった。たまに自ら暴力に参加することもあった。

この小さい兄妹たちの、唯一の心の拠り所がおばあちゃんだった。おばあちゃんは、本当の父親のお母さんだったのだが、父親は妹が生まれてすぐ死んだらしかった。優しいおばあちゃん。大人の顔色をうかがわなくてすむこの祖母の存在が男にとっての唯一の心の拠り所であったのだ。そんなおばあちゃんからお金をもらうことを、いつも母は強要した。おばあちゃんの家から帰るときには必ず「おこづかい」を10万円ほど無心するように、男と妹に課していた。そんな生活が何年も続いた。

「ふざけんな!これしきの金!もっと取ってこい!」

その日の母親もひどく酔っていた。ただ、なにか気に入らないことでもあったのか、いつもどおりおばあちゃんからの「おこづかい」を母親に渡しても、足りないとわめいてきたのだ。男は心底震え上がった。母親の隣りにいた愛人がにやけながらゆっくりと立ち、妹の顔を殴りはじめた。労働者風の大柄な大人が、何の手加減もせず無抵抗な妹を黙って殴り続ける。母親はそれを見てただにやにやしている。男は必死に妹をかばった。だが無駄だった。愛人に投げ飛ばされ、壁に体を強く打ち付けた。

「だから言ってんだろ!金を奪ってこい!わかってるだろ!?殺してでも奪ってくるんだよ!あの糞ババア!」

母親は息巻いた。愛人は妹を殴る手を止めない。酒と汗の匂いが充満して家中が臭かった。男は顔面が真っ青になりながら金属バットを手に取ると、おばあちゃんの家に走った。

「あら?さっき帰ったばかりなのに、どうしたの?――」

男を迎え入れたいつもの優しいおばあちゃんに向かって一発。

声を発する間も無くさらに二発め、三発め。金属バットを容赦なく振り下ろす。

暴力の仕方はわかっていた。物心ついたときから入れ代わり立ち代わりその身をもって大人たちに仕込まれていたのだから。十二発め、十三発め。脳症が飛び散り、すでに顔がなくなったおばあちゃんの体は振り下ろすバットの勢いでびくんびくんと跳ねる。

「っっっ糞があああぁぁっっっ!っだらああっっっ!!」

男の中で何かが切れた。今まで発したことのない怒りをバットにのせて、何度も何度も叩き伏せた。こうでもしないと妹が殺される。それが男の世界の全てだった。

その翌日には男の事件は新聞を賑わせた。「遊ぶ金欲しさの少年、育ての祖母を殺害し金を奪って逃走」男はあっけなく捕まり、少年院に入れられた。

院で出会った「お仲間たち」から鍵開けや窃盗のスキルを学び、少年院を出る頃にはすっかり一人前の犯罪者として成長してしまった。少年院から出てきたばかりの男に、妹はとっくの昔に死んだことを母親はあっさりとした表情で告げた。以後、空き巣や窃盗、恐喝や強盗を繰り返し、三〇年の実刑を食らって刑期を終えて出てきたが何の反省もないまま初老に至る、それが男の人生のすべてであった。弥平のヴァイオリンに出会うまでは。私は今まで悪いことをしてきた。こんな犯罪者の自分でも、音楽を美しいと思える心はあったんですねえ、ありがとう、本当にありがとう、また来ます。男はそう言って、家路についた。

明くる日。

いつもどおり演奏するなら、もうすぐ駅に向かうために家を出なければいけない時間だが、弥平はまだ決め兼ねていた。いつも以上に苦悶に満ちた表情で顔を歪ませ、弥平は真っ青になりながら滴り落ちるほどの脂汗を袖でぬぐった。

斧を手に取るか、ヴァイオリンを手に取るか。

復讐。その炎を消すのに三〇年かかった。なんという運命のいたずらか。

今でも夢に見る。顔のわからない男の首に手をかけ、締め付ける。何故。何故だ。男に激しく問い詰めながら、力を強めていく。何故、妻と息子なんだ。あと一息。あと一息喉を締め付ければ、復讐を果たせる。そのときになって悲しそうな顔をした妻と息子の姿が浮かぶのだ。三〇年前と何一つ変わらない姿で。

はっと首にかけていた手を離した瞬間に目が覚める。いつも脂汗でびっしょりだ。三〇年間、いつもこうだった。

強盗だと?あの男は強盗だと言った。だが間違いなくやつは強盗殺人を犯している。三〇年前、弥平の妻と息子を殺害したのはあの男だ。間違いなかった。

弥平の妻と息子は、縛られて無抵抗のまま、なぶり殺しにされていた。妻は顔だけを重点的に殴り続けられた様子だった。妻の美しい顔が、見るも無残に腫れあがっていた。息子はまるで蹴球のように蹴り上げられ、遊びながら殺されたかのようだった。家じゅうの壁やガラス戸に打ち付けられたようで、ふたりとも意識のあるまま何時間にも渡って暴行を受けていた。コンサートから帰ってきた弥平を待ち受けていたものは、家族の凄惨な殺害現場だったのだ。物言わず、動かなくなった大切な妻と息子は、変わり果てた姿でただ虚空だけをみつめていた。

最初、復讐を考えなかった日は一日もなかった。犯人は捕まったと聞いたが、なぜ自ら法を犯した者が、法に守られているのか理解ができなかった。しかしながら妻も息子も、復讐を望んでいるわけではないことはよくわかる。ここで自分までもが犯人と同じ立場に落ちてしまえば、その魂を貶めたのは他でもない被害者である妻と息子たち本人のせいということになる。これ以上愛する者の魂を貶めたくない、それだけは避けたい一心で苦悩し続けてきた。

為す術もなかった弥平は、ただヴァイオリンを弾き続けるしかなかった。鎮魂とか贖罪などというものではない。ただただ他に為す術がなかったのだ。

あの男は犯罪者でも音楽を美しいと思うことができると言った。弥平のヴァイオリンが荒んだ人生の一人の男の心の拠り所となり得たことが、弥平を余計に苦しめる。個人的に憎むべき相手に、音楽を弾くことは出来るのだろうか。

弥平は決心した。

ゆっくりと立ち上がり、斧を手に取った。そして斧を手にしたままふらふらとヴァイオリンの前に立ち、その楽器めがけて斧を振り下ろした。